サイトーのタカラヅカ備忘録~すみれの森で迷子~

好きな「エンタメ」「面白かったこと」についての沼備忘録。演劇・宝塚・映画・本、旅行等娯楽、趣味についてと思ってはいるけど、ほぼタカラヅカ関連になるでしょう。。真面目な考察はできません!心のおもむくまま~~

「オレステイア」感想続き2

どうも!おばんです~サイトーです~!

 オレステイアの感想①では、つらつら書ききったつもりだったのですが(え、あれで?というつっこみはなしで!笑)色々思い出したりしたこともあったので、感想②に行きます!

 

読み返すと自分の感想ってこんなまとまってないのか、ってゾッとするので、読み返さずに行きます!(おい)

戯曲買って戯曲を中心に車座に座って、見た人で口々に感想とか考察とか言い合う無責任な会があったら透明人間で参加したいレベル!!他の人の見解とかギリシャ悲劇に精通している人が見たこの舞台、的なのも聞いてカタルシスを得たい。すごく得たい。

舞台機構がすごいんだ よね。

3幕で4時間20分(20分間の休憩を2回挟む)というとても長い舞台なのですが、あんまり長さを感じなかったのは計3幕で舞台機構がガラッと変わるから、という理由もあるんではないかなと思いました。
舞台の使い方がとても面白かったです。(なのに1回目の感想で舞台機構についての感想を一切書かなかったという抜けっぷり)

今回は、前の座席をつぶして舞台にしている関係でさらにとても奥行きがある舞台になっています。

舞台中心には正方形(に見えた笑)の縁石に四方を四角く囲まれた空間に、天井からは大きな白いカーテンがつるされています。カーテンが時に部屋の壁となり、時に浴室の壁になり、スクリーンになり、変化することで舞台を進行していくのも面白いなと思いました。

1幕は、シフォン素材のような向こうが透けて見えるくらいの白い薄布カーテン

これが、ずっと動かない(=娘を殺さないと女神の怒りで風が吹かない)のですが、父アガメムノンが神託の通り娘イピゲネイアをその手で殺した瞬間に風が吹くという演出で、カーテンが大きく揺れ動いて「はっ今風が吹いた・・・!」と観客にもインパクトを与えつつ伝える役割も持っていて、思わず膝を叩いてなるほど!となりました。

2幕は、防水加工が施されているような白いカーテン(に真っ赤な血を象徴するインクが飛び散る。防水であるのにも理由がちゃんとある)

3幕は、カーテンが外されて箱の上と下のような部分が露わになる(無機質で裁判中の感じが強くなる)

舞台上に紙が大量に降る演出や、スクリーンに舞台上で撮影している映像を映し出すなど、視覚的にも見ていて飽きない工夫があって面白かったなと思いました。

奥に向かうにつれて傾斜があると思うのですが、それもさらに奥行きを高めていました。新国立劇場中劇場では2017年の『トロイ戦争は起こらない』も舞台上に出現した「坂」を含めた舞台機構が最高にカッコよかった記憶があります。

あとは、イピゲネイアが死ぬシーン

趣里ちゃんが幕の外の生田オレステスの目の前に倒れこむのですが、照明!!!!の感じが(言葉で言えないのですが)イピゲネイアの肌の温度がもう低いのが分かるの・・・

これってすごくないですか・・・だって本当は趣里ちゃんは生きているのよ・・・(当たり前)でもね、肌の色が絶妙に既に亡くなっている人のそれなのよ・・・

でもね、そのすぐそばにいる生田オレステスの肌色は、生きている人のそれなのよ・・・

コイツは何を言っているのか、という感じですが、絶妙な照明の位置調整のなせる業なのでは、と思った次第です。

倒れこむ位置だって日によって違うだろうし、あの色を作るの大変な気がする。

(うん、ここまで言ってサイトーの思い込みだったら盛大に一緒に笑いましょうね!深読み勢乙~~って言ってね!笑)

 

出演者の皆様凄まじい よね。

復讐の女神役の倉野章子さんについて、感想失念しておりました・・・!なんということでしょう・・・。

1・2部の乳母キリッサと同じ方ですが、復讐の女神のときはずっと黒のベールで顔が見えない。でも腰にヘビついてるし、手は血だらけ。ずっと裁判中に舞台を不気味に動き回って「未払いの死がある。支払いは子供!」と叫ぶ。叫ばれるたびに声圧がビリビリとして客席でびくっとするサイトー(笑)

乳母キリッサと言えば、母は自分の乳をあげて子供たちを育てたと言うシーンがあった(気がする)のですが、後々キリッサが自分の乳で育てたオレステスの乳母だったといいます(えっ、母がっつり嘘やん!それはあなたの母であることに執着しているだけで、実際は乳あげてないやん!ってどうでもいいですが思っちゃいました)

この不気味な存在感がもう半端ないことになっています。

顔が見えないのに醸し出すオーラが、思わず見ちゃいけないって本能が思ってしまうくらいの生き物を超えた何かだった。
なんだろう、ハリーポッターに出てくるディメンターみたいな感じと言えば伝わるでしょうか(ごめんなさいね、ハリポタを共通言語だと思っている節がありましてね・・・世代なもので( ◜ᴗ◝))

作品の理解が難しい よね。

理解を難しくしている原因として、原作のギリシャ悲劇では「神」と「人」との距離が近くて身近に存在していた時代だから「神の信託だから」っていうのが、「大正義」としての共通認識としてあったけれど、今回は設定は近代になったから、その設定はなくなるかと思いきや、そこだけは柔らかく残ったままなところかな、と思いました。

「神の神託」はそのままあえてセリフの中や行動原理の中に残されているから、舞台設定として、完全なる近代化はおそらくあえてされていないように一度見た限りでは思えた。この辺りは、作品の近代への翻案だと理解してる人のほうがやや混乱しそうだなと。でも、殺した理由が「神託」だからには、それって証明できるんですか?って聞かれると、え~神託が前提で進んでたんじゃないの?って混乱しました。

 

第3幕は、現在のオレステスの母殺しの裁判についての審議にあっと変わりますが、

成立させるために、第1幕と第2幕は、医師(精神科医)がオレステスの記憶を呼び戻すために登場人物役を手配して再現VTRする的な荒療治だったのね~と分かります。

この1幕の冒頭シーンが最後で出てくるという手法は、よくほかの舞台でも出てくるやつですね!なんでずっと舞台上に医師がいるんだ、とか、しょっちゅう出てくる証拠物品はなんなんだとかは裁判中で、被告が精神錯乱中で記憶障害だからという訳

オレステスが変装をしていたから、計画性が立証できるという検察官側の言い分は確かに、今の裁判だとそういう風になるか、と面白かったり

あとは、現在の裁判員制度に対しての盛大な皮肉というか、訴えかけているように見える台詞もあり、最近起こった事件と照らし合わせても深く考えさせられました。

以前に、実際に裁判員裁判に参加した方で、

自分たちが人ひとりをさばくのに慎重に議論を重ね、様々な状況を考慮し、出した結論が控訴された先の裁判官の心象でひっくり返って自分が今まで重ねた時間はなんだったのだろうと虚無感に襲われたという記事を読んだことがあるのですが、そんな感じ。

第3幕も、みんなで議論を重ねて証言も集めたけど、同数だったから最後の決断は一人(アテナ)が行うよん!というのは非常に鋭利な民主主義への、裁判制度への皮肉ですよね。

舞台で生じたモヤモヤは舞台を見ることでしか解消できない よね。

 パンフレットやチラシに記載の「父親って、一番娘を愛しているんだ よね。」がまだかみ砕けていないのがモヤモヤ。。これって父親(アガメムノン)は娘(イピゲネイア)を一番愛しているはずなのに、神託というあいまいな証明できない理由によって、そんなに大切な娘を戦争に勝つために殺したことっておかしくない・・・?という皮肉っていうことでいいのでしょうか・・・直接的すぎる・・・?

悲しいかな、勝手に深読みグセが付いてしまいました。。

 

あとは、人はだれかに許されたいと思っているけど、本当の意味での許しとそれによる平安はだれが与えるものなんだろうな、とか考えさせられました。

オレステスも裁判ではアテナの一票で無罪になったけど、彼自身は自分が許されたとは最後のシーンでは多分1ミリも思ってない。魂の平安はない。

殺すっていうことは愛の延長線上で最大の執着の現れっていう説を取ると、父は娘に執着し、母はそんな父に執着した、そして息子は母に執着していたというなんともなんともな状況が浮かび上がる説もあるのか・・・な?

 

決してハッピーエンドではない題材だけれど、人の歴史は繰り返す、それを止めることが出来るのもまた「人」である、(これは戦争という大きな流れもおそらくしかり)という希望も込められたメッセージも受け取れるようにも思ったりしました。

 

な~んてね!

はあ~生身の舞台で役者さんのぶつかり合いが感じられる時間はやっぱりいいなああ!(月並み)

そして新国立劇場中劇場は本当に素敵な劇場でいいなああ!さすが国立!